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賛否両論真っ二つの評価ながらも、大物作品感バリバリの『映画/ジョーカー』でネタバレ含む戯言を。非常に奥深く、考察や解説のしがいがある作品なのですが、今回はあえて軽めです。

だってこの映画、猫も杓子もドヤ顔で考察しまくりなんですもの。もう飽きたでしょ、そういうの。

ジョーカー


2019年 アメリカ

キャスト:
ホアキン・フェニックス
ロバート・デ・ニーロ
ザジー・ビーツ
フランセス・コンロイ
ブレット・カレン
ビル・キャンプ
シェー・ウィガム
グレン・フレシュラー

監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー

ネタバレ無しのあらすじ

1981年、アメリカ・ニュージャージー州ゴッサムシティ。

大道芸人として働くアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、『意志とは無関係に突然笑い出す』というチック症に悩みつつ、年老いた母親の面倒を見ながら暮らしていた。

そんな彼が目指しているのはコメディアン。

多くの人々を笑顔にして脚光を浴び、憧れのマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務めるトークショーに出演することなどを夢見ているのだった。

しかし彼の生活は日に日に苦しいものとなり、それに伴って徐々に精神のバランスは崩壊し・・・

キャストで戯言

主演はホアキン・フェニックス

あのリヴァー・フェニックスの弟であり、古い人間としてはヨアキン・フェニックス表記のほうがしっくりきたりしますが、おそらく今の人はリヴァー・フェニックスと聞いてもピンとこないのでしょうなぁ。

そうそう、”今の人”と言えば、10代後半~20代前半の若者が本作でホアキンを知り、「こいつはスゴい俳優だ!」とファンになり過去作を追ってみるものの、

・・・これ、誰?

…となるパターン続出だそうな(笑)

がははは、たしかに今回の彼は別人。この映画のために80kgあった体重を60kg以下まで減量したそうですぞ。

そして主人公アーサーが憧れる、売れっ子コメディアン役はロバート・デ・ニーロ

ある意味ハマり役のようで、ある意味ミスキャストのような気も。

ただでさえ『映画/タクシードライバー』と『映画/キング・オブ・コメディ』の焼き直し的な内容なのに、そこに彼を起用したらシャレにならんじゃないですか。

ところがどっこい、むしろそれこそが狙いとも思える内容だったりするんですよね、これがまた。反体制派の象徴であったトラヴィスも、地位と名誉と金を手に入れてしまえば”向こう側”に回ってしまうのか…と。(あくまで妄想)

彼ら以外にもそこそこ顔の売れた俳優が多数出演していますが、とりあえず戯言はこの二人だけで。

現実か妄想か

冒頭でも書きましたが、とにかく多くの考察ポイントがある本作。

しかも製作者側で明確な正解を作らず、答えを鑑賞者にゆだねている部分も多々あり、100人観れば100通り…とまではいかずとも10通りくらいの解釈は出てきそう内容。

  • アーサーはトーマス・ウェインの子なのか
  • ペニー(母)は本当に妄想障害だったのか
  • 観客席からマレーにステージ上へ招かれた記憶
  • ラストの血の足跡と精神病院
  • 11時11分

などなど、細かい部分を考察・解説していったら昼ご飯を食べる暇もないほど長くなってしまいます。

幸い話題性の高い映画で鑑賞者も多く、数々の映画ブログであーだこーだと解説を繰り広げていますので、細かいとこまで考察したい方はネットの海を自由に渡り歩くのが良いかと。

わたしゃ早くお昼が食べたいので本質の部分だけ。この映画の根本となる部分だけに絞って戯言を垂れ流そうかと思います。

果たしてこの作品に真実はあるのか

そもそもアレがどうとかコレがどうとか以前の問題なんですよ。

『我々が目にした映像のうち、果たしてどれだけ真実があったのか』

ってことです。

いえ、もちろん映画なので全てフィクションですが、そういう意味ではなく。

この映画は終始アーサーの視点から描かれていますが、彼は『信頼できない語り手』であり、誰が見ても明らかに妄想とわかるように描かれた部分(同アパートのシングルマザーとの関係等)以外にも、多くの虚構が織り交ぜられていると考えられます。

『信頼できない語り手』とは?

小説・映画などの物語で、語り手(語り部、ナレーター)の信用性を低くすることにより、物語に謎や奥深さをもたせたり、ミスリードを誘ったりする手法。

基本は一人称で語る場合を指すが、場合によっては三人称の形式であることも。

『小さな嘘をあえて見抜かせることで、より大きな嘘を隠す』ってのは映画だけに限らず常套手段ですし、『自らに都合の良い妄想を現実と混同してしまう』というのは程度の差こそあれ我々一般人にもそう珍しくないこと。

『エレベーターで同乗した女性と恋仲になった』『マレーのショーで幸せな体験をした』など、不自然なまでにアーサーにとって都合が良すぎる展開は現実と思い込んでいる妄想と考えて良いのではないかと。

さらに飛躍して考えてしまえば・・・

物語最後に面談している医療施設らしき場所。この建物の壁は序盤の無料カウンセリング中に思い出した『精神科に収容されていた記憶』と完全に同じなのです(レンガ模様の光沢のある白タイル)。

同じ病院に収容されたと考えることもできるので、あくまで想像の域を出ませんが、『この映画の内容全てが、彼の妄想を含んだ記憶であった』と考えるのもアリではないかと。

つまりそのように描かれていないだけで、この映画はラストの面談シーンから始まっており、全てはアーサーの記憶(妄想を含んだ)だったのではないか。まさに『信頼できない語り部』による『信頼できない自叙伝』だったのではないかと。

だからこそ最後に『聞かせて』『理解できないさ』のセリフがあるのか…とも。

セルピコかっ!

…というわけで真面目は話は終わりです。さぁさぁ、疲れたでしょう。いつもの『戯言三昧』らしい話をしようじゃありませんか。

実は私、この映画を最初に見た際、序盤のアーサーが帰宅して母親が登場するシーンで、

「トーマス・ウェイン!?そりゃバットマンの父親じゃないか。こりゃジョーカーはバットマン(ブルース・ウェイン)の腹違いの兄貴だったって話か!」

…と、後の展開が即バレ。

なぜなら、

  • 老いた母親と貧しい二人暮らし
  • 母親はちょっとボケちっく
  • 地位のある男性が助けてくれると信じている
  • その男性は過去の奉公先の主

…って、ベルセルクのセルピコ(と母)かっ!

と、ピンと来てしまったんですもの。映画開始10分でネタバレですよ。

セルピコ
三浦健太郎「ベルセルク」22巻より

ベルセルク知らん人には全く通じない話ですが、知っている人であれば私と同じく「セルピコ!?」と思ってピンときた方はいると思うんですよね。

超個人的な戯言感想

久しぶりにエンドロールで立ちたくない(余韻に浸っていたい)作品であり、久しぶりにガチで考察を書きたい(戯言にしたくない)作品だった『映画/ジョーカー』。

そもそも自宅で鑑賞しているので立つも座るもないんですけどね。

この映画を本気で考察したら2000~3000文字じゃ収まりませんし、そうなると『ダラダラと持論を垂れ流し、独りよがりで読みづらい映画ブログ(しかもつまらない)』になるだけ。

ちらっと真面目な部分に触れたら、あとは毒にも薬にもならないようなことを書いて終わりのパターンが私にはお似合いです。

ついでに『パッケージの顔がインパルス板倉に見える』とかも書こうと思ったんですけどね…。