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今回はこれまた非常に書きづらい『映画/セクシャリティー』でネタバレ戯言。主演サラ・ガドンのヌードで魅せる美しき官能ドラマ・・・的な紹介をされたりしていますが、オッサンと青年が全裸でまぐわう光景ももれなく付いてくるという、困惑ドラマでもあります。

セクシャリティー


2018年 カナダ

キャスト:
サラ・ガドン
ロザンナ・アークエット
ディミトリス・キトソス
ラオール・トゥルヒロ

監督:スックイン・リー
脚本:スックイン・リー

あらすじ

父を知らず、障害者を装って生活する母と暮らしていたタイラー(サラ・ガドン)。

そんな二人に突然『オクタヴィオ(父親)が死んだ』という知らせが届く。

自分のルーツを知るため母に告げず父のアパートへ向かったタイラーは、そこで衝撃の体験と共に衝撃の真実を知ることに・・・。

・・・といった流れで男装のサラ・ガドンが美しすぎる作品。

キャストと戯言

主演はサラ・ガドン

『映画/アンチヴァイラル』での存在感に惹かれ注目したものの、その後追って観た『映画/複製された男』があまりにも難解すぎて彼女の魅力どころではなく。しばらくご無沙汰しておりました。ちと印象変わりましたな。

今回はフルヌードの全力演技を見せてくれるものの、物語が「おっぱい!おっぱい!美おっぱい♪」と小躍りできるようなノリではないため、なんとも複雑な心境。想像以上の美おっぱいだったのに…。

そして彼女の母親を演じるのはロザンナ・アークエット

なんとも覚えづらい顔なのでピンと来なかったのですが、後から調べてみたら『映画/ディヴァイド』でアレな事になった母親役の人でしたか。これまたお久しぶり。

邦題で戯言

本作の原題は『Octavio Is Dead!』(オクタヴィオが死んだ!)

サラ・ガドン演じるタイラーが父親の事、そして自らのルーツを知るために旅立つきっかけとなった父の訃報。彼女の人生を変えた重要なキーワードをそのまま表現した良タイトルです。

…が、どこかの思慮浅い日本人が「これじゃ意味わからんよね。同性愛の話だからこれでいいんじゃね?」と付けてきたのが『セクシャリティー』という残念な邦題。

セクシュアリティとは人間の性、一般的には性的嗜好などを表す言葉ですな

しかし本作は単純に同性愛・異性愛といった薄っぺらい話ではなく、そもそもセクシュアリティという概念自体が同性愛/異性愛と簡単に二分化できる話でもない。

ここらへんを深く追うとドツボにハマるので追いませんが、とにかくもうちょい配慮した邦題にしていただきたかったな…と。

予想外のネタバレあらすじ

その邦題だけではなく、各所のあらすじや予告編でも『深く切ないヒューマンドラマ』を予感させるこの映画。

生い立ちと母親のクソっぷりから自分を殺して生きてきたタイラーが、父の死をきっかけに自らの人生と向き合う覚悟を決める。果たして父とはどんな人間だったのか。自分がこの世に生まれてきた理由と意味は?

そんなもんはドコを探しても売ってないし落ちてもいませんが、とりあえずそういう事って本人にとっては大事ですから。

しかし道中のバスで『座っていたはずの男が消える。そして急に現れ追ってくる』のくだりで感じる「あれ?」感。

その嫌な予感はアパート到着後に『水道の蛇口が勝手に動く』で加速し、ついに『お父さん(死んでます)登場!』のダメ押し展開で、

まさかのオカルト系!?

…と、Octavio Is Dead!以上の衝撃を喰らわせきやがるという。あれれ、てっきりリアル系ヒューマンだと思ったんだが・・・。

この父親演出は最後まで観れば『決してオカルト的な要素ではなく、あくまで彼女の心象を表現した比喩』と理解できるのですが、表面だけ流し見た人には最後まで「オカルト要素入れんなよ…」とガッカリされそうな気も。

2回も同じ絵ヅラで見せる『ぷるぷる全裸で水浴び』の描写も、男という存在になる事で初めての愛を獲得するタイラーが、『あくまで彼女は女である』という事を強く印象付けるための描写なのでしょうが、これも「この無駄な全裸シーン、必要ある?」とか言われそうですな。わしも最初はただのサービスショットなのかと思ったもの(笑)。

とにかく表現が文学的と言うか詩的と言うか、淡い味付けで真意を汲み逃してしまうような演出が多く、そこがこの映画の魅力でもあり落とし穴でもあるかと。

ただし淡々と描かれているものの中味は非常に濃く、父を追うために男装したタイラーは父の教え子であるアポストリスと出会い、そして恋をし、彼もタイラーに恋心を抱いてくれるもののそれは男としてのタイラーに対しての感情。

彼は同性愛者であり、ついでに父も同性愛者だった・・・という重大カミングアウトを青年とオッサンが全裸で絡み合いながらチュッチュするという衝撃映像で暴露。

タイラーが本当は女であることを知ったアポストリスは彼女の愛を受け入れる事はできず、父も同様に母を愛する事ができないために家を出る事になっていた・・・。

なんだこれ!クソ重深い話じゃねぇか!

・・・と、サラ・ガドンのエロエロ目当てで鑑賞した人間には斜め上とも言える展開と表現で来るわけですよ。

これじゃ「よくわからんかった」「薄っぺらい」といった感想が並び、イマイチな評価をされるのも仕方ありませんなぁ。たまにあるよね、こういうパッケージの印象と伝えたい内容にギャップがありすぎて、結果ハズしてしまう映画。

性別と性的嗜好で戯言

普段の言動からわかる通り、わたしゃ100%異性愛者。アダルトビデオで男の尻が映るだけで「ぐえー」とテンションが下がり、柔道の寝技で相手のスネと自分のスネが擦れ合うだけで逃げ出したくなるほど純度400%の女好きです。男、無理。触りたくもない。

しかしこういう映画を観てしまうと、そこらへんも深く考えされられますなぁ。

あんなにタイラーを愛し求めたアポストリスも、彼女が『女である』と知ったとたんに態度が変わってしまう。服に覆われた外見は何も変わっていないのに。

私が女だと思ってキスしたりモゾモゾしてた相手が『実は男だった!』と知った時のような気分ですか?うむ、そりゃ「ぐえー」となりますな。石鹸で手と口を100回くらい洗いたくなります。

・・・が、よくよく考えてみればそれも変な話。

もし私が本気で恋してその性格まで愛した女性がいたとして、それが実は『出生時の性別は男(ぶらんぶらん付き)。その後身体を女性に変えた』だったならば、それだけで「もう愛せない」となってしまう理由はなんなのだろうか。愛したのは心なのか?身体なのか?その両方か?ではその身体は完全に天然モノでなくてはいけないのか?では何かしらの身体的欠損を持って生まれた女性が、後に手術で補っていたならばダメなのか?知らなきゃアリなのか?

などなど・・・考えれば考えるほど『男女の区別ってなんなんだ?』とドツボですよ。

劇中、タイラーがアポストリスに対し「私が女だからか!」と放った時、彼は即座に「違う!嘘をついていたからだ!」と答えていました。これが彼の真意だったのか、女であるタイラーを愛せない言い訳だったのかはわかりません。

最初から女として会っていても同じように愛したのか、それとも恋愛の対象にすらなっていなかったのか、我々だけでなく当事者すら知る由がありませんから。

父親がタイラーの母となる女性と出会い子供をもうけた理由も、本気で女性を愛そうと努力したのか、それとも一時の感情なのか…真意はわかりません。

最後に彼女は父のカケラに火をつけて弔い、新たな人生を歩む決断をしたように見えます。

男として男を愛していた父。

彼女が求めた『なぜ自分が存在するのか。なぜこんな人生を送らなければならなかったのか』の答えはそこにあったのでしょう。父は男しか愛せず、母もそんな父を受け入れることができなかった。それはタイラーとアポストリスとの関係にも似ています。

しかし同性愛という感情を拒絶した母親とは異なり、彼女は理解して受け入れる事を決めた。それを否定してしまったら、自分の存在が否定されてしまうから。

うーむ、なんだよ男と女って。穴と棒の話だけじゃ説明できない、このモヤモヤはなんなんだよ。

そんな余韻を残される作品でしたなぁ。

超個人的な戯言感想

・・・というわけで。

『男女問題』が絡む作品はどうしても私情を挟んでしましますし、『同性愛』なんて苦手このうえないテーマなのですが、なぜか本作はすんなり受け入れて楽しむ事ができました。

これは本作が一方向からの偏った主張ではなく、鑑賞者に結論をゆだねる形で客観的に描いてくれたからかもしれませんなぁ。こういうアプローチならば自分とは異なる価値観にも耳を傾け、理解しようと努力する気にもなりますさ。

映画として面白いかと問われればなんとも難しいところではありますが・・・サラ・ガドンが美しいおっぱいを晒したり全裸になったり、男が素っ裸の尻丸出しで絡んだりしたのに、ひたすらバカな戯言で押せ押せモードにならなかった時点で『面白い』と感じたのでしょう。たぶん。

でも人にはオススメしませんよ。