その表現とラストの余韻から「???」となった方も多いであろう「映画/トム・アット・ザ・ファーム」
天才肌と評されるグサヴィエ・ドラン監督の「映像・セリフでは明確に表現せず、しかし露骨なほどの演出で伝える」という手法。一見変化球のようですが、実はド真ん中へ直球ストレートを投げ込むような、25歳という若さならではの表現になっています。
トム・アット・ザ・ファーム
(原題:Tom a la ferme)
2013年 カナダ・フランス合作
主なキャスト:
グサヴィエ・ドラン
ピエール=イヴ・カルディナル
リズ・ロワ
エヴリーヌ・ブロシュ
監督:グサヴィエ・ドラン
脚本:グサヴィエ・ドラン、ミシェル・マルク・ブシャール
ネタバレ無しのあらすじ
事故死した恋人、ギョームの葬儀に出席するため、彼の実家の農場を訪れたトム(グサヴィエ・ドラン)。
そこでギョームの兄、フランシス(ピエール=イヴ・カルディナル)から「弟がゲイだったことは母親には隠せ。おまえは友達という事にしろ」と強要されます。
当初は傲慢で暴力的なフランシスに反発していたものの、次第に深みにハマっていくトム。
果たしてトムは何を感じ、何を求めているのか。彼が行き着く先は・・
・・・といった内容の作品。
ここからネタバレを含むよ!
冒頭・・・
紙ナプキンに青いペンで何かを書き殴っていくシーンから入ります。
「ラストシーンの一部を冒頭に見せ、そこに至るまでの経緯を描く」という作品は多数あるので、この映画も最終的にこのシーンに行き着くのかと思わせますが・・・ここは純粋に冒頭。ギョームへの弔辞を考えていたのですね。
しかし最後の「君の代わりを見つける」というくだりが、この映画で大きな意味を持つ言葉となっていきます。
納屋でのタンゴ
タンゴと言うと男女のペアでセクシーかつ情熱的に踊るイメージがありますが、もともとは男同士で踊るものだったそうです。
19世紀、出稼ぎ労働者があふれていたブエノスアイレスで、日ごろの鬱憤晴らしのために男同士で激しく踊ったダンスがアルゼンチン・タンゴの始まりと言われています。
そして映画作品では「同性愛」をほのめかす演出として、しばしば「男同士」のタンゴが描かれます。
この「トム・アット・ザ・ファーム」でも、トムとフランシスが納屋で激しくタンゴを踊るシーンがありました。
フランシスの傲慢で威圧的な態度に反発を感じていたトム。無理矢理踊らされたはずが、いつの間にかノリノリでタンゴを踊り、セクシーな表情すら見せ始めるという・・・。
フランシスも踊りながら、己の中に溜めていた感情を吐き出します。
なぜ一度逃げたトムが戻ってきたのか。揺れ動いているその気持ちは、いったいなんなのか。そして事あるごとに「母」という絶対の存在に従って生きてきたフランシスの葛藤。
本来は「男同士、激しく己の中の鬱憤を吐き出すための踊り」であるアルゼンチン・タンゴを用いて、お互いの心の中にある「何か」を吐露するような、そんな印象深い中盤のシーンとなっています。
ちょっと余談ですが・・・
日本でも同性愛が広く認められるようになってきましたが、外国に比べればその部分ではまだまだ後進国。やはり「一部の特殊な性癖」というイメージが根強くあります。
しかし洋画作品では、この映画のように「同性愛」に焦点が当たっている作品以外でも、特に重要でもない部分でさらりと「同性愛者」が描かれる事も多く・・・「異性愛が常識」という感覚で観ていると「え?そっち!?この人を同性愛者にする意味ある!?」と感じる事も・・・。
ベッドの位置
その二人の間に漂っていた「怪しい匂い」は、その後の「首絞めプレイ」にて確信へと変わる事になります。
そして観ていた方が「あれ?」となったであろう、ベッドの位置。
はじめは部屋の両端にあったベッドが、終盤では部屋の真ん中にくっついています。
これはトムとフランシスの関係を表しているのでしょう。
この前の晩、つまりトムがバーで「なぜフランシスが周囲から距離をおかれているのか」を聞き、サラがバスで去った後。二人で帰宅した彼らは、一線を越える関係を結んでしまったのではないか…と私は思います。
そして足元にある、ギョームの思い出が詰まった箱。
おそらくアガット(母)は、全てを理解してしまったのでしょう。もしかしたら、トムとフランシスの関係も知ってしまったかもしれません。
その後のアガットは描かれていませんが、現実を受け入れる事ができず、去ってしまったのかもしれません。
直球すぎる「フランシス」とは何の象徴か・・
これはもう、思わず笑ってしまうような表現でストレートにぶちこんできました。
強引で威圧的、自らに従わない者は暴力で屈服させる。その結果孤立しつつも、それでも傲慢な態度を変える事ができない。
そんな「何か」…いや「どこか」を表現するため、トムを追いかけるフランシスは素敵な上着を着てきました(笑)
そしてラストで流れる「アメリカにはもう、うんざりだ」の詩。
もう直球すぎです。あまりにも露骨すぎて逆に疑ってしまうほどのストレートな演出にちょっと笑ってしまいました。
それにしてもあんなセンスのない上着、いったいドコで買ってきたんでしょう(笑)
それぞれが代わりを
冒頭の「君の代わりを見つける」という文字。
アガットは序盤、まるで死んだ息子の代わりのようにトムをもてなし・・・そのトムは、ギョームの代わりとして同じ匂い・同じ声を持つフランシスに惹かれました。
そしてフランシスも、何かの代わりとしてトムを求めていたのでしょう。それは死んだ弟だったのか、ダンス教室の女か、それとも「母」という絶対支配から抜け出すための何かなのか・・・。
物語の終わり、トムは慣れ親しんだ街へと戻ってきますが、心にはまだ葛藤が伺えます。
信号が青に変わり・・・果たしてトムは「再び農場へ戻る」のか、それとも「ギョームのいない世界で生きていく」のか・・・。
もしかしたら監督が表現したかったのは、そのどちらでもないかもしれません。戻ったところで待っているのは「暴力的な支配」です。しかし元の世界にも「彼の安住の地」はありません。どちらにせよ代わりなど見つからないのです・・・。
ここからは低レベルな戯言を含むよ!(笑)
ハラハラドキドキ
いやー、なんか真面目に書きすぎました。こういう作品は、変態がどうとか尻がどうとかいう話ができないので、非常に精神を消耗します。
それにしても観ていてドキドキしたのが「いつトムとフランシスの、決定的にアレなシーンがきてしまうのか」でした。
トウモロコシ畑で組み伏せられた時にドキドキし、タンゴの最中に顔が近づくとハラハラし、首を絞められているシーンでは「うわー!くるのか!?ついにくるのか!?」と覚悟しました。
もう、いつフランシスが荒々しくトムの唇を奪ってしまうのかと・・・。
幸いな事に、そこは露骨に表現されませんでした。ふぅ。
そういえば終盤にトムが荷物をまとめて農場を去るシーンで、キャスターが壊れてしまったキャリーバッグを捨てて行くものの、ギョームの思い出の品だけは大事に持っていこうとするトム。ネクタイまでしっかりと首にかけているのが、とても可愛らしかったです。
私は無知な素人なので作品を観終わってから知ったのですが・・・トムの俳優はグサヴィエ・ドラン。天才と称されている監督本人だったのですね。
つまりよくある「監督・脚本・主演」という作品でした。この若さですごいなぁ。
余計な事まで全部表現してしまう日本映画や、不条理な展開でもエンターテイメント性を爆発させるアメリカ映画などとは一線を画す作品ですが、そういった「余韻」を楽しみたい方にはおすすめの映画です。